「まち・みせ・ひと」をマッチング


by hikkii-51

 #1 「 ホームズと漱石 」

 「チーム・マイナス100年」 

#1 「ベーカー街の漱石」  

 アームチェアーにもたれ、パイプをくゆらせている、やや険しい表情のわし鼻の横顔。
そうそうシャーロック・ホームズのポートレートをご覧になった方は少なくないでしょうね。子どもたちやアニメファンは少年期の探偵コナンのポートレートを思い出すかもしれませんね。
では、ホームズ19歳のときのポートレートは? それから17歳のホームズの頭蓋骨は?
まさか、ね? いえいえ15歳の時の頭蓋骨なども出品されたりして・・。えーっ、それって何のオークション??そうそうこれは日本シャーロックホームズクラブの年次総会。恒例のホームズオークションの話である。ポートレートや頭蓋骨がそれぞれ1万円、1万5千円、2万円、と値がつりあがっていって・・。 だいぶ以前に参加した同倶楽部の総会時のことでしたが・・・。

 “シャーロック・ホームズと夏目漱石” 
あまりにも有名な、けれどおよそ関わりがあるとは思えないこの二人が実はニアミスしていたとしたら・・・。
 時はいまからおよそ約100年余り前。処は霧とスモッグに煙るロンドン。漱石は地下鉄に乗り、師事するクレイグ先生宅へ通う毎日。霧と煤煙にけむる街を漱石は日々孤独な心を抱えながらべーカー街まで往復していたという。そしてそこはかのホームズゆかりの地。「ワトスン君、ホラ!依頼人だよ、階段を昇る重い足取りが聞こえないかい」。ホームズの探偵事務所はベーカー街221B。ハドソン夫人の家の二階にあった。
 
 「クレイグ先生は燕の様に四階の上に巣をくっている」と漱石も『永日小品』に書いている。先生はその時、56歳。黒や白のひげやあごひげが乱立する顔でメガネをかけ、いつも縞のフラネルを着て、漱石に報酬を前借りを頼むほどに、けっして豊かではない生活を送っている沙翁の専門学者で、アイルランド人だった。先生の得意なのものは「詩」であった。「ある時窓から首を出して、遥か下界を忙しそうに通る人を見下ろしながら、君あんなに人間が通るが、あの内で詩の分るものは百人に一人もいない、可哀想なものだ。一体英吉利人は詩を解する事の出来ない国民でね。其処へ行くと愛蘭土人はえらいものだ。はるかに高尚だ。ー実際詩を味わう事の出来る君だの僕だのは幸福と云わなければならない、と云われた」ともある(日本図書センター刊、小森陽一編)。ホームズとワトソンが眼下の通りを忙しそうに歩き回る姿をクレイグ先生に見下ろされていたかもしれない。それからほどなくして帰国した漱石は、二年後に先生の死の報に接している。

帰国後の漱石は
代表作といわれる多くの作品を次々と発表。やがて朝日新聞社に請われることとなる。1907(明治40)年、漱石40歳。そう、漱石は明治の世とともに産まれ、ともに齢を重ねたのである。

 その後、
漱石は1916(大正5)年12月9日の永眠のその時まで、約10年。相次ぐ労働争議や日韓併合、また大逆事件の死刑執行、明治天皇死去、アインシュタインの一般相対性理論発表などなど、激動の世相とニュースを持病の胃潰瘍とともに体感し、そして逝った。享年49歳。その後大正の世はわずか10年で、さらなる激動の「昭和」へとあわただしく引き継がれた。


  「江戸歴史検定」が始まり、「江戸の歴史を歩く会」なども参加者多数でうれしい悲鳴だと聞く。中高年層に限らず、「もったいない」実践社会、環境先進社会だと江戸時代への関心が特に高い。それに比べれて「100年前」のことはあまり人気が無い。明治時代後期、そして大正時代。漱石やホームズの活躍した時代といってもたった100年前だ。

「チームマイナス100(仮称)」は
S.H.ホームズのロンドンや万博に沸く繁栄のパリ、躍進のドイツ、一方でそれらとはまったく対極にあった中国やアジア、アフリカなどの動乱、戦乱をにらみながら、この国の100年前を歩いてみることにしたい。


豊かとはいえないけれど、デモクラシーや希望やロマンがあった、。一方で、大きな戦争があった。多くの災害や事件もあった。
 たった100年でこの国は実に大きく様変わりしたものである。でも変わらないものもある。              


  ◇            ◇          ◇

 次号は「漱石と鈴木三重吉(児童雑誌「赤い鳥」)について、書き留めてみたい。
  
 そして、
どうぞあなたのお持ちの情報やお考え、またコメントなどもお寄せください。お待ちしています。
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by hikkii-51 | 2007-10-07 16:01